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虎穴に入らずんば虎子を得ず

  「漢書」を顕したのは後漢のはじめの班彪?班固?班昭の父子であるが、彪を父にもち、固と昭を兄妹とする班超は、この一家ではいささか毛色の変った存在だった。なかなか勇壯活溌な生れつきで、およそ系統だった學問とは縁がなさそうにおもわれるのに、いざとなると意外に弁舌がたつし、書物もたくさん読んでいる。もともと清貧をもって聞えた家柄のうえに、厖大な資料集めに家産を傾けてしまっていたから、班超もこと志とちがい、退屈な役所勤めをしてどうにか口すぎをしていた。

  そして時に、「男と生れたからには、傅介子?張騫のように、手柄を西域でたてたいものですね。

  それで大名にとりたてられれば、わが志なれり。

  いつまでもこんなつまらない事務なんか執っていられますか。」

  というような、平凡な事務屋の度肝を抜くような大きなことを言うのだった。こんな調子だから、小役人など尋常に勤めあげられようはずがない。ついに事に坐して免職されている。浪人生活に入ってからは、西域往來の商人や、気概を尊ぶ遊俠の士と交わり、靜かに機會のくるのを待っていた。

  その知識と能力を見出されて、はじめて西域に武名をとどろかしたのは四十に手のとどく頃だったが、それからの班超の西域経綸ほど、華々しいものはない。彼の往くところ、どんな困難にぶつかっても、おのずから道が開けるかのようだった。

  例えば、天山南路と天山北路の分れ道に當る、本土に一番近いオアシス國ゼン善で示した、あらゆる緊急の事態への対応ぶりにうかがわれるように。――

  最初のうちゼン善から手厚い待遇をうけた班超の一行は、或る日手を翻すように悪くなった彼らの扱いを、どう解していいのかわからなかった。給仕女に至るまで、眼の青い美姫から中年の山だしに変っているではないか。一同ただあっけにとられてぶつぶつ不平を並べているばかりだったが、超ははたと膝を叩いて、

  「我々には秘しているが、さては、匈奴の使者が著たに相違ない!」

  さっそく、王城へ壯士の一人を走らせ、王の信任厚い侍従を呼びよせると、

  「匈奴の使者はどこにいる?」

  鎌をかけて訊きだしておいて、奧の間に押込んでしまう。そして、三十六人の壯士をことごとく大広間に集め、上等の肴はないが、まずは盛大な宴を張ったのだ。ここであらたに匈奴の使者が到著し、王が彼らに誼を通じている事実を告げて、

  「それからのわれわれに対する冷遇は諸君承知のとおり。

  手を拱ぬいてこのままゼン善の術中におりいり、匈奴の國におくられ、狼の餌食などになっていられようか。

  意見のある者は誰でもいい、遠慮なく言ってみよ。」

  一座の重苦しい沈黙を破って頭だった者が一人にじり出て、

  「もともと命はあずけてある、お役に立つならどんなことでも。」

  班超はずいっと睨みまわし、「虎穴に入らずんば虎子を得ず、匈奴の宿舎に火を放って夜襲を仕掛けよう。味方がわずか三十六人の無勢とは夢おもわない奴らは、上を下への大騒ぎとなろう。」

  言葉に応じて、てんでに獲物をひっ摑んだ命知らずどもは、闇のなかへ消えて行く。折から吹きつのる風に乗じて、鼓を持った十人が虜舎のうしろへ隠れれば、あとの者は門の両脇に伏せる。火があがると同時に鼓を鳴らし鬨の聲をあげ、數倍の敵を皆殺しにしたのだった。ゼン善が屈伏したのは、いうまでもない。

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